戦前の日本人なら誰でも知っていた軍神たちを紹介しましょう. このような教育により国家のために殉ずることが最高の美徳であるとされていました. このようなことが極端な精神主義を生み出したという点では非難されるべき事柄でしょう. ただし,自らを犠牲にして何かをやり遂げるという点は評価されてもよいかもしれません. もちろん,このような状況に追い込まれることは,決してよくはないのですが…
私の拙い記憶で書いているので,内容に間違いがある可能性があると思います.
木口小平
日清戦争のときのラッパ手.当時の軍隊は様々な目的でラッパを用いた. もちろん,現在の軍隊でも起床の合図などに使われている. 特に,当時の軍隊では突撃の合図に用いることが慣例となっていた.
木口が所属する部隊では,木口がラッパを吹くと必ず勝つというのがジンクスになっていた. 隊長はいつものように木口に突撃ラッパを吹くことを命じた. 木口のラッパとともに部隊は突撃する. そのとき,ラッパが突然やんだ. 「木口,ラッパはどうした?」と問いかけると,すぐにラッパが鳴った. 部隊は突撃を続け,陣地を占領した. ところが,木口の姿がない. 不審に思った隊長が引き返すと,ラッパを口に当てたまま木口は死んでいた. 喉には銃弾が貫通した跡があったという. 木口は銃弾に喉を貫かれながらも,ラッパを吹き続け戦死したのであった.
後に突撃ラッパを吹くことは敵に突撃を教えることになるとして廃止されていく.
広瀬中佐
日露戦争時の海軍軍人.当時のロシアは旅順に太平洋艦隊の基地を持っていた. 太平洋艦隊の兵力だけでは日本海軍には勝てないので,ロシアはバルト海にあったバルチック艦隊を太平洋に派遣した. バルチック艦隊と太平洋艦隊が合流すれば日本海軍に勝ち目はなくなる. バルチック艦隊が来るまでに太平洋艦隊を撃滅することが日本海軍にとって重要な任務となった. ところが,太平洋艦隊は旅順港から出てこない.
そこで,2つの作戦が考えられた.
1つは,陸から旅順を攻撃し艦隊を撃滅するという作戦であった. これが,203高地の戦いで有名な旅順要塞攻略作戦であった.
もう1つは,旅順港から艦隊が出られないように,入り口を塞いでしまうという作戦であった. この時の作戦を旅順港閉塞作戦という. 作戦は古い船を旅順港の入り口に沈めて,港の入り口を塞ぐというものであった. 当然,ロシア側も黙って見ているはずがない. 船が近づくとすさまじい勢いで反撃してくる. 船を沈めるための爆薬を仕掛け終わりボートで脱出しようとしたとき,広瀬中佐は部下の杉野兵曹長がいないことに気がついた. 彼は再び船内に戻る. 「杉野はどこにいる」と船内を探すが見当たらない. そのとき,ロシア側の砲弾が船に命中し広瀬中佐は戦死した. 彼は部下思いの軍人として,国民の間に広く語り継がれ,「広瀬中佐」という歌も作られた.
佐久間艇長
明治末期の海軍軍人. 日露戦争の頃から潜水艦が実用化されはじめた. 日本海軍も外国から潜水艦を購入し訓練を開始した. 当時の潜水艦は技術的に問題が多く,エンジンにガソリンエンジンを使うなど非常に危険な乗り物で,大きさも20m程度しかなく潜水艇と呼ばれていた.
佐久間艇長の指揮する6号潜水艇は瀬戸内海での訓練に出発した. 潜航を開始して間もなく,艇はバランスを崩し,艇内に海水が進入し浮上できなくなった. 乗員達は浮上させようと努力を続けるが艇は浮き上がる気配を見せない. 深度は高々15mであるから,魚雷発射管を使えば脱出は可能であった. だが,陛下から預かった大事な艇を捨てて脱出することは許されない. 時間は経過し,艇内の空気は悪くなる. そして,海水と潜航時に使うモーター用の電池の硫酸が反応し塩素ガスが発生. 佐久間艇長は最後が近いことを予想し,どういう状況で艇が沈むに至ったかを記録し,遺書を書いた. 遺書の始まりはこうであった.
誠ニ申シ訳ナシ
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス
誠ニ申シ訳ナシ
6号潜水艇が引き上げられたのは2日後のことであった. 艇内には自分の持ち場を最後まで離れず任務を全うした軍人の遺体があった. 逃げようとした形跡などはなく,ここに日本海軍の名誉は保たれた. 特に,佐久間艇長の遺書の内容は軍人の本分にあふれるものとして賞賛された.
身を君国に捧げつつ
己が勤めをよく守り
倒れて後に止まんこそ
日本男児の誉れなれ
外国の海軍では,今でも佐久間の名を知っているものが多いという.
真珠湾の九軍神
真珠湾攻撃は飛行機だけで行われたのではない. 小型の潜水艦による攻撃も行われたのである.
日本海軍は洋上での艦隊決戦用に小型の潜水艦「甲標的」を建造していた. 乗員は2名で艦首に魚雷を2本持っている. この乗員達が自分達にも真珠湾を攻撃させて欲しいと願い出たのである. 真珠湾を飛行機が攻撃するのに呼応し,湾内に進入,敵艦に攻撃を掛けるという作戦であった.攻撃に参加したのは5隻,計10名.だが,1隻も攻撃に成功しなかった. しかし,日本国内では,アメリカとの戦争で初の戦死者ということもあり,軍神に祭り上げられた.
ところが,軍神になったのは9人である. 1人はアメリカ軍の捕虜となったので軍神にされなかったのだ. 捕虜になったのは酒巻少尉で日本初の捕虜であった. 当時は戦陣訓があり,生きて虜囚の辱めを受けずという教えがあった. 酒巻少尉も死のうとしたが,やがて考え方を改める. 彼は捕虜になった日本兵が自決しようとするのを止め,多くの日本兵の命を救った. 彼の捕虜としての態度は立派なものであり,アメリカ軍の軍人達も感心したという. だが,日本に残された親族は捕虜になったということで非国民とされた.
捕虜に対する日本軍の考え方は間違っていたといってよい. アメリカやイギリスでは,捕虜となることは後方を撹乱するという目的を遂行するものとして評価されていた. 特に脱走を企てることが奨励されていた. これは,脱走すれば,脱走した兵士を取り締まるだけ敵は兵力を割かねばならないことを理解していたからであった. また,捕虜になったときは階級と姓名以外は喋るなという教育が徹底していた. これに対し,日本軍は捕虜となる前に死ねと教育し,捕虜になった後どうすればよいかという教育はしなかった. 結果的に日本軍の兵士は捕虜になった後,何でも話してしまい情報は筒抜けであった.
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