日本陸軍の指揮官と責任について言及したいと思います. 軍という組織が独断で行動する人間を処断しなかったという致命的な欠陥について考えます. 辻政信を中心に話を進めます.
ノモンハン事件
背景
1939年,世界情勢は緊迫の度合を深めていた. ヨーロッパではドイツが周辺諸国を併合することに成功し,回廊問題の解決となるポーランドへの侵攻,さらにソ連への侵攻を狙っていた. しかし,英仏との戦いも考えられており,ドイツとしては二正面作戦をしたくはなかった. 一方,ソ連もドイツと事を構えた際に日本との二正面作戦となることを恐れていた.
当時,日本は満州国を作り上げ,そこに関東軍を駐屯させていた. 日本も,ドイツがソ連と事を構えることを想定し,関東軍の拡充を図っていた. 日本陸軍の仮想敵国は日露戦争以来ロシアであった.
ちなみに,関東軍は元々関東州(遼東半島など)の駐屯兵力であり,満州事変の際には1万人程度の兵力であったが,事変の拡大と共に中国の東北地方一帯に駐屯する軍へと拡大されていった.
そもそも満州事変に軍の責任問題が絡んでくる. 満州事変は謀略(宣戦布告なき戦争であるので事変という言葉を用いていたが,明らかに戦争である)であり,現地軍の独断で引き起こされた. 日本政府は現地軍の独断を黙認してしまったために,これ以降の軍の発言力の拡大と,独断で事を起こしても結果が良ければ構わないのだという考えを軍人達に抱かせるようになってしまった. これと同じことがノモンハン事件,後の太平洋戦争でも起きるのである.
話を戻すと,ソ連とドイツはポーランド侵攻に際して密約を結んだ. ドイツの侵攻に際して,ソ連はポーランドの東側,ドイツが西側を領有するというものであった. これによってドイツはソ連のことを気にかける必要はなくなり,ソ連も日本との関係に集中できた. そうは言っても,将来的に独ソ両国とも互いに戦争状態になると見ていた. そこで,ソ連はこの際日本を徹底的に叩いておいてドイツとの二正面作戦になることを避けようと考えていた.
日本陸軍はソ連を仮想敵国としてはいたが,事が起きれば日本側が不利になる要素が強いと考えており,この時点でのソ連への侵攻は考えておらず,ソ連が侵攻してきたときに戦うという心積りでいた. ところが,関東軍の参謀は必ずしもそうではなかった. 特に,作戦課の参謀達は,ソ連軍の実力を過小評価し積極的な戦いをすべきであると考えていた.
事件の発端
1939年5月,大興安嶺の彼方,満州とモンゴルの国境地帯ハルハ河である事件が起きた. そもそも,この地帯は満州国側とモンゴル側で国境線をめぐってお互いの主張が一致していなかった. モンゴル軍の兵士が川辺で馬に水を飲ませたことが発端であったとされている. 日本側はこれを越境進入であるとみなし,モンゴル軍を追い払った. 一方,モンゴル側は日本の越境行為であると主張した. 双方が部隊を出動させ緊張は高まった.
辻参謀の独断
日本の中央では事態を拡大させないように努めようとしたが,関東軍の参謀はそうは考えなかった. 特に,辻政信中佐を中心とする関東軍の作戦課の参謀達は,これこそ好機であるとし現地軍に対して独断で越境攻撃を命じた.
しかし,事実は違っていた. ソ連軍は十分な準備をしており,初期の航空戦では勝利したものの,地上戦は悲惨なものとなった. 大体,日本軍の兵站基地であるハイラルからは200kmも離れており,当時の日本軍の実情では補給が続かないのである.
師団の壊滅
現地にいた第23師団は編成されたばかりで十分な訓練も行き届いてはいない部隊であった. 戦場において機動力のない兵士達は歩いて進軍をせねばならなかった. 一人当たりの装備は40kgを越えるのである. しかも,今日行き着く目的地が出発のときから見えているというような広大な戦場である. 結局,十分な準備をしたソ連の誇る不敗の名将ジューコフの指揮するソ連・モンゴル合同軍の機械化兵力の前に第23師団は壊滅してしまった.
通常,戦力の10%が失われると戦いの継続は困難になり,30%でほぼ壊滅というのが通説である. このときの第23師団の損耗率は70%を越えていた. つまり,通常の意味での壊滅ではない.
ソ連側の最も近い鉄道駅までは750kmもあった. しかし,機械化が進んでいたことと,十分な準備期間もあったので,ソ連側に兵站面で怠りはなかった.
にもかかわらず,辻中佐らは戦いをさらに拡大しようとしていた. 負けたのは自分達の情勢判断の誤りではなく,第23師団が弱兵であったからであるとして,関東軍の精鋭を投入すればソ連軍などは鎧袖一触であるとしたのである.
さすがに,中央も戦いを収めるために動きだした. しかし,1個師団壊滅という事実は帝国陸軍の威信に関わる問題とされ,戦いの真相は国民に伏せられた. このため,辻中佐らに対する責任追求も曖昧なものとなってしまった.
シンガポール
背景
太平洋戦争の目的は東南アジアの資源を確保する事にあった. その際,フィリピンとマレー半島の攻略が不可欠であった. 特に,マレー半島の先端シンガポールにはイギリスが誇る東洋一の要塞があった.
シンガポール攻略のために,当時の日本陸軍としては珍しいほどの機械化部隊が送り込まれることになった. このときの指揮官が山下奉文で,その参謀として辻が派遣されていた.
辻参謀の行動
この作戦は突進作戦といわれているほどの凄まじいものであった. この突進に自ら先陣を務めたのが辻中佐である. 本来ならば,参謀は大局的に情勢を判断し指揮を行うことが必要である. それなのに自分が先頭を切って突進してしまっては指揮が行えない. 参謀の行動としては問題がある.
シンガポール占領の直後,華僑の虐殺が行われた. これは山下将軍の命として行われたのだが,辻が山下の名を騙り命令を発したものである. 山下は戦犯として処刑されたが,その一因は辻にあったともいわれている.
ニューギニア
背景
太平洋戦争開戦後,日本軍の第一段階の作戦は予定以上に成功した. しかし,開戦当初に次の第二段階の計画があったわけではなかった. そこで,第二段階の作戦としてオーストラリアを戦線から脱落させるために米豪分断作戦が策定された. ニューギニア,ソロモン,フィジー,サモアといった島を攻略し,アメリカとオーストラリアを分断し,オーストラリアの継戦意思を挫くというものである.
ニューギニアにはポートモレスビーに大規模な航空基地があり,ここを占領すればオーストラリアを直接攻撃できる. ミッドウェー作戦に先立ちポートモレスビー攻略作戦が行われたが,アメリカの機動部隊の奮戦もあって攻略は失敗した. その直後にミッドウェーで空母4隻を失い海からの攻撃はできそうもなかったので,陸路からの攻略が検討されはじめた.
辻参謀の独断による命令変更
第17軍に陸路からのポートモレスビー攻撃を検討せよ
との命令が大本営から発せられたが,辻参謀は直ちに陸路からのポートモレスビー攻略を実行せよ
と独断で命令の変更を行った. 第17軍は大本営の命令であるとして,1942年7月ポートモレスビー陸路侵攻作戦を実行しはじめた. そして,大本営も結果的に追認したのである.
作戦の推移
兵士達は,一人当たり50kgに及ぶ装備と食料をもってポートモレスビーを目指した. もちろん徒歩である. ニューギニアの中央には高さ2000mを越えるオーエンスタンレー山脈が走っており,これを越えて進軍せねばならない. 激しい戦いを続けながらポートモレスビーまで50kmに迫った. だが,食料は尽き飢えが始まった. 補給は陸路で行われていたが,食料を運ぶ兵士も食わねばならないから届く量は減ってしまう. 状況は深刻なものとなり悲惨な撤退戦が始まった.
兵士達は,生きて帰れぬニューギニア
と言った. だが,実情は死んでも帰ることができなかったのだ. 今でもニューギニアには日本軍将兵の遺骨が数多く眠っている.
検討せよが実行せよに勝手に変更され,しかも大本営が追認してしまう. 軍としての統帥はどうなるのか? 無謀な計画で送り込まれた兵士達は犬死にではないのか? 勇ましいのは結構なことだ. しかし,勇ましいだけで後先のことを考えないのは馬鹿である.
ガダルカナル
背景
ポートモレスビーへの陸路侵攻直後,米軍はガダルカナル島に上陸し,日本海軍が建設中の飛行場を奪い取った. このガダルカナルの飛行場は,米豪分断を急ぐ海軍が建設中のものであった.
そもそも,ガダルカナルは海軍の前線基地であったラバウルから1000kmも離れていた. 通常,航空基地はお互いに連携が取れるようになっていることが望ましい. 当時の飛行機の性能から考えると500km程度がその限界であった. しかし,連戦連勝が続いていたこと,アメリカ軍の反撃は1943年になってからであるという観測があったので一気に1000km先に基地の建設を始めたのである.
相次ぐ失敗
直ちに奪還が計画され,ミッドウェー島攻略を予定されていた一木支隊が投入された.一木支隊の先遣隊900人は敵は少数であると判断し,上陸後直ちに攻撃を開始した. アメリカ軍の行動は反抗作戦でないと信じられており,今度の上陸も強行偵察程度のものと考えられていたからである. しかし,これは完全な誤りであった. 米軍は1個師団の兵力を上陸させていたのである. 一木支隊の先遣隊は一晩で壊滅した.
事態の深刻さが飲み込めてきた陸海軍は本格的にガダルカナル奪還を計画しはじめた. 兵力も徐々に送り込まれた. しかし,なかなか奪還は成功しない. そこで,飛行場奪還のために現地に派遣されたのが辻参謀であった.
辻参謀はジャングルを突破し,飛行場の背後を突くという作戦を立てた. しかし,この作戦は失敗した. 理由は簡単といえば簡単である. ジャングルを進軍することが困難であり部隊の展開がバラバラであったからだ. 実際にジャングルを調査して立てた作戦ではない. 机上のプランだったのである. しかも,すでに同じ作戦で2度失敗していたのである. 川口支隊長からは反対があったが,この直後川口は更迭されている.
こういった無謀な作戦に投入されたのではたまったものではない. だが,将兵たちは命ぜられた通りに戦ったのである.
まとめ
戦後
その他にも辻参謀がかかわった作戦は無謀なものが多い. 何故か日本陸軍の負け戦には彼が絡んでいる.
日本が敗戦すると辻政信は僧侶に化け潜伏した. 戦犯としての訴追を恐れたのである. そして,戦犯の追及が終わったころ日本に帰ってきた. 彼は,潜伏していたときのことを潜行三千里という本にまとめて出版した. これがベストセラーとなり,彼はこれを元に国会議員になった. その後,ラオスに行ったまま行方不明となった. 一説によれば,山下財宝を探しに行ったのだとも言われている.
辻参謀に関して驚くのは,ノモンハンの失敗があったにもかかわらず,太平洋戦争時には大本営の参謀として数多くの作戦を指揮したことである. しかも,その作戦の多くが無謀なもので失敗したにもかかわらず,その責任を追及されていない. また,彼自身自分に非があったとも考えていないようである.
インパール作戦
辻政信に限らず,陸軍の指揮官には問題の多い人物が多かった. 例えば,インパール作戦を立案した牟田口簾也中将もその典型であろう. 彼は盧溝橋事件のときの指揮官であり,自分で大東亜戦争を始めたという意識を持っていたという. インパール作戦によって戦局を好転させ大東亜戦争を終わらせることを考えていたようだ.
インパール作戦は,日本陸軍史上最悪の作戦といわれるほどの悲惨な戦いであった. ガダルカナルを生き残った兵士達でさえインパール作戦での飢餓は,ガダルカナルよりもひどかった
と言っている. 日本軍の輸送トラックが日本軍兵士によって襲われるという事態まで発生したという. このような中で,第31師団は佐藤師団長の独断によって撤退することになる. 日本陸軍の歴史上かつてない抗命であった.
インパール作戦は当初から無謀であるとして反対意見が多くあった. さすがに,牟田口中将も責任をとらされ一度は引っ込められたが,終戦時には予科士官学校の校長に復帰している.
一方,抗命という行為を犯して部下の窮状を救った佐藤師団長は軍法会議での責任追及を考えていたが,陸軍中央は軍法会議を開かず,佐藤師団長には精神的問題があるとして責任の所在をうやむやにした.
責任所在の不明瞭性
陸軍の中央は,責任追及を始めると辻や牟田口のみならず,作戦許可を与えた参謀本部(大本営)全体に責任が及ぶことを恐れたのではないか. そして,追求をはじめるとその頂点には天皇がいる. 自分達の組織に都合が悪いことは隠しておこうというわけだ. 昨今の高級官僚と同じ論理であろう. 彼らは当時のエリート中のエリートである. 陸大を首席で卒業し,恩賜の軍刀を授けられ,自分達こそが帝国陸軍を指導していくのだという自負があっただろう. だが,自己の保身に走り,処罰すべきを処罰しなかった組織の末路は悲惨である.
一般将兵に及んだ災厄
何より,彼らの無謀な作戦によって戦地に送りこまれ死んでいった兵士達の事を思うとやりきれない. 例えば,ノモンハン事件でソ連のジューコフは日本軍を次のように評価した.
下士官兵は精強であり,将校は狂信的に作戦を遂行する. だが,高級将校は無能である.
兵士達は生き残るため,家族のため,あるいは国のために必死に戦うだろう. だから,無理な作戦でも勝利することはあるだろう. だが,作戦の立案者が「自分の作戦が良かったのだ」と考えれば始末が悪い. さらに無謀な作戦を兵士達に押し付ける.
アジア諸国に迷惑をかけたことは間違いないが,日本軍の兵士達も同じように悲惨であった. 我々は過去から学ばねばならない. しかし,歴史を見ると過去から学ぶことは難しいらしい.
参考文献・資料
- 五味川純平,「ノモンハン」,文春文庫
- 半藤一利「ノモンハンの夏」,文藝春秋 (1998)
- 歴史と旅・臨時増刊「太平洋戦史総覧」,秋田書店 (1991)
- NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争-敵を知らず己を知らず・ガダルカナル」
- NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争-責任なき戦場・ビルマインパール作戦」
コメント