房総半島南端の戦跡

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これらも20年以上前の記録です。現状は異なるものがありますのでご注意ください。

房総半島南端は,東京湾の入口に位置していたため首都防衛の重要な役割を期待され,要塞地帯として戦前から要塞化が進められていました. その中で残っているものの写真です.

館山市宮城・香地区の戦跡

館山市の宮城には,館山海軍航空隊(昭和5年6月1日開隊,現在は海上自衛隊館山航空基地),洲ノ埼海軍航空隊(昭和18年6月1日開隊)があったこともあり,数多くの防空壕や掩体壕がありました. 近年の宅地化により宮城地区の掩体壕は次々に壊され,残っているのは1つだけです. 香(こうやつ)地区の掩体壕は洲ノ埼航空隊の敷地の西端に位置しており,宮城地区のものよりも,大きさも高さもあるので大型機用のものと思われます.

掩体壕

掩体壕の全景. 大きさから考えると単発の航空機が入れられていたと考えられる. 以前は,写真奥に見える住宅付近に多くの掩体壕があった.
掩体壕正面.
掩体壕内部. 尾翼が入る部分が分かる.
掩体壕より外部を見る.

境界標識

境界を示す標識のはず. 昔は文字が読み取れた.

洲ノ埼航空隊滑走路跡

洲ノ埼航空隊の滑走路跡. 今では道路になっている.

洲ノ埼航空隊射撃場跡

洲ノ崎航空隊は航空整備兵の養成が目的であった.機銃の弾道調整の訓練を行うための射撃場.周囲には弾痕が残っている.

水上機発着場跡

館山航空隊の水上機発着場の跡. 現在はヨットなどの置き場に使われている.

赤山周辺の防空壕

赤山の防空壕跡. 写真向かって左側の岸壁に防空壕の入口がある. 館山航空隊のすぐ裏手にあたり,本土決戦の際はここに立籠る予定であったと思われる. 現在は内部に入ることは困難であるが,中は二階建構造になっている.現在は一般公開されている.

以下は赤山周辺に残っているもの.とにかくたくさんある.

香地区の航空機掩体壕

香地区に残る掩体壕. 大型機用のものと思われる. 内部に水がたまっているので入ることはできなかった.

富浦町大房地区の戦跡

富浦の大房地区は東京湾に向かって張り出した高台で,幕末にも砲台が設置されていました. 大正末になり要塞地帯として指定され,昭和3年ごろから工事を開始し,昭和7年頃すべての工事を終えたようです. 東京湾要塞の一翼を担い,対岸の砲台と連携して東京湾への艦船の侵入を阻止することが目的でした. 当時は,列車のブラインドは降ろされたままで外を見ることは禁止され,写生や写真撮影なども禁じられていました. 現在は公園として整備されています.

砲台跡

砲台脇にある説明. 写真にあるような状況で残っていた.
現在の砲台跡. 整備されて奇麗になっているが,当時の姿とは異なっているものと考えられる. 大房には,20cm砲2門の砲塔が2基設置されていた. 背後には弾薬庫の跡も残っている.

隠蔽式探照灯跡

探照灯が格納してあった建造物. コンクリートは非常にしっかりしたもので,とても60年以上前のものとは思えない. この建造物の向かい側に探照灯エレベーターへの入口がある.
探照灯エレベーター跡. 探照灯は地下に格納されており,使用時にエレベーターで持ち上げられた.
通風孔の後.
探照灯台に向かっている通路の床. 非常に奇麗な状態である.

施設跡

現在は物置場として使われているようである.

発電施設跡

震洋発進場跡

震洋を発進させるためのレールの跡.
震洋を発進させるためのレールの跡. 海面下にあるのは満潮時のため.

洲崎第一砲台

所在場所

館山市加賀名 (40mの台地にある,西崎小学校の裏手)

竣工年月

  • 1928年(昭和3年)9月起工
  • 1929年12月備砲工事起工
  • 1931年11月完成
  • 1932年(昭和7年)築城工事竣工

装備

45口径30センチカノン砲2門入砲塔1基 (巡洋艦“生駒”主砲)

2002年夏の洲崎第一砲台跡

ポピーランドの地図. L地区が砲台跡.
以前と異なり草木が払われたので全体の様子がよく分かる.
砲塔井の跡はすっかり分からなくなってしまった.
頂上からは館山湾が見渡せる.
砲塔の地下構造物はそのまま残っている.
ベンチレータ.
ベンチレータ. 造成により折られてしまったようだ.
今回は見つけることができた砲台地下への入口.
入口から内部を撮影したもの. 内部は,館山市の広報誌「だん暖たてやま」で見ることができる.

以前の洲崎第一砲台

砲塔井と換気口が残っている. 換気口から内部に入ることができそうであるが危険.
砲塔井の直径は約7-8m程度である. 内部は竹が密集して生えている. 砲塔井の縁のコンクリートを境に竹が生えていないので砲塔井の形状がよく分かる. なお,砲塔井は完全に埋められている.
砲塔井の竹薮を掻き分けて反対側に出ると換気口が4本確認できる. 3本はほぼ同じ形状で1本は折れているため,そこからならば内部へ入ることが可能かもしれない. 1本は若干離れた場所にあり,口の径が異なる.
換気口の近くで地下構造物が露出している場所がある.

洲崎第二砲台

所在場所

館山市坂田 (南方の谷地にある)

竣工年月

  • 1924年(大正13年)10月起工
  • 1927年(昭和2年)3月竣工
  • 砲座より約100m奥に同年同月“洞窟式洲崎弾薬支庫”竣工

装備

7年式30センチ長榴弾砲4門

配置図.県道から南に向かって奥に入る.

第二砲台の入り口を示す門柱.
砲座跡.
門柱から奥の道へ入って行くと最初にある弾薬庫と思われる穴. 入り口には銃眼のような構造がある.
二番目にあるトンネル. 向こう側に抜けている. 内部に二つの部屋がある. 入り口付近には迷彩の跡が残っている.
道を奥まで進むと一番大きな弾薬庫跡に出る. 入り口は二つあり内部は大きな空間となっている.
もう一つの道を奥まで行くとある弾薬庫. 途中で橋を二つ渡るがそれも当時のものと思われる.
上記で説明した橋. 誤ってフラッシュを炊いてしまったため暗くなってしまった.
道はコンクリートで舗装されていたようだ.
兵舎跡と思われるコンクリートの構造物が竹薮の中に点在する.
近くに井戸もある. 井戸は作りから考えて当時のものと思われる.

三芳村下滝田の桜花発射台跡

太平洋戦争の末期,本土決戦の際,来襲する敵艦隊に対し桜花による特攻攻撃用に作られた発射台が三芳村下滝田に残っています. 発進用のレールは近くにある知恩院に残っているはずです.

本来,桜花は一式陸上攻撃機などの母機から切り離されて発進し敵艦に突入するものでしたが,母機ごと撃墜されてしまうため,このような地上から発射するという方式に切替えられました.

当然のことながら,敵艦隊からの艦砲射撃を避けるため内陸部に作られていました. そのため,房総半島ではこの三芳村が選ばれました.

桜花発射台跡.発進方向に向かって撮影. 前の木があるためよくわからないが,発進方向は開けている. 規則的に空いている穴はレール固定用の穴だと思われる.
前の写真とは反対方向から撮影.
穴のアップ.

富津市金谷砲台山

東京湾フェリーが神奈川県横須賀市久里浜と千葉県富津市金谷を結んでいる場所は東京湾が狭くなっている場所で,防衛上砲台を設置すれば侵入してくる艦船を阻止できる場所です. 陸軍が砲台を設置していたため「砲台山」という名前が付いています. かつては遊園地として整備されていたので,その跡も残っています.

金谷砲台は砲塔式砲台ではなかったようで,弾薬庫と左右の砲塁から構成されている.
弾薬庫は,ほぼ左右対称に構築されている. 入口は4ヶ所ある.
砲塁は左右に構築されている. 左側の方が若干大きいようだ.
東京湾が見渡せる位置に存在している.

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